金曜日の日記枠が開いていたので、店長がのっとります。油断も隙もないですね。
順番だと山吹さんに日記の日だったようですが、すっかり忘れていたようです。まあ、そういうときもあります。店長に日記スペース乗っ取られるだけで、あとは無問題でしょう。山吹さんの日記ファンの方は、残念でした!

毎週金曜日
11:00~16:30 山吹海帆
17:00~21:00 天海玉紀

4/5の日記の続きです。
進路と学費の悩みは、意味がないからとにかくそんな悩みはやめちまえ!という話です。そもそも親(特に母親)生まれた直後から責任背負いすぎで、ここまできています。生まれたら、その責任の範疇は、とにかく子どもの命を守ることにつきます。「死なせてはならない」それでもどうにもならない不可抗力で亡くなってしまう子どももいます。命が授かるのが奇跡=命を失うのも奇跡。そんな奇跡にかかる責任、本来は、その子の環境である大人全部にかかります。子どもの姿がそこらで目につくことを嫌がる人は、その「子どもに対する責任」を分担したくないということの現れです。
本来、弱いものは強いもので分担して、その命を守るというのが、社会というシステムを作る醍醐味だと思うのですが、なぜか、子どものことに関しては親がその責任を丸投げされてしまっています。

とにかく死なないように義務教育を終わらせました、という時点で、子育ての責任は一息つくくらいじゃないと、親が死にます、と思うのです。でもそこから先も、塾だ進路指導だ、学校見学だ、説明会だ、学費はどうするんだと延々、親の責任だと思わされるロードが続いていきます。責任だと思っている限り、それを果たさなければ!と悩みが生まれる。そして責任を果たそうと頑張っているのに、それを阻害するかのような家族の無理解や、子ども本人の態度や言動にも、また悩みが生まれる。

子どもの進路は子どものものだから、本人が助けてください、力を貸してくださいと言われてから考えてもいいのです。それに家族(多くは夫や妻などの片親)が協力的でないのは、家族はあなたと別の人間なので、きちんと話し合って方向性を一致させない限りは無理です。「これが世間では普通」「親として当たり前」「義務と責任」という話では共感されなくても当然のこと。家族だって別々の人間ですから。

子どもの進路と学費については、責任のカテゴリー抜けて、親としての楽しみ娯楽カテゴリーに移動するのが得策です。子どもの希望にどこまでつきあえばいいかは、楽しみと思える範疇で充分だし、逆に子どものほうが自分の娯楽につきあってくれるような感じの場合もありますよね。必要以上に成績上げてきたり、ここなら世間に顔向けできる!という名門校に合格してきたり。つきあってもらえなくても、それはもともと娯楽なんだから、楽しいなと思うことは違ってあたりまえ。悔い違ったら、趣味が違うなと気持ちを深入りさせない方が良いです。責任ではなく娯楽なんだから。

特にヤバイのは、親が責任と思ういわゆるまっとうな進路では、本人の性質がうまく伸びないというお子さんに、親の方が、進路と学費を親の責任として用意しなければ!となっている場合です。この問題、何度もわたしいろんなところで書いていますが、算命学で観てもらってほんとにはっきりしました。世の中には親の責任や援助が、本人がまっとうな社会人になる進路に、明らかに邪魔になるという星の元に生まれる子がいるんですね。実は私自身もそうでした。

子どもに幸せになってほしいという愛情と、最低限の教育を受けさせてから社会に出さなければという責任、これをごっちゃにしている限りは、抜け出せない悩みがあるのです。でも子どもの進路と学費のことで悩んだとき、自分の親は私に対してどうしていた?中学で登校拒否→保健室登校→転校、中学を転校までして、受験資格得てせっかく入った高校も転校、絶対ここ!と自分で決めて入った専門学校も出席日数不足で留年して、就職もせず、結婚もせず、自分の好きなようにして、そのたび、私が自分で決めてこうしたい!と主張したことに関しては、うちの親、黙って金だけは出してくれていた…これって、愛情だけで接してくれていたんだ!と気が付いて、ぎゃっ!となりました。

納得いかなかったんですよ、長男に関する算命学からのアドバイス、身強で戌亥天中殺の子は家から出しなさい、って言われてもはぁ?だったですよ。そんなの無理だよ、この子なんにもできないよ?って。でも愛情ってなんだろうと思ったら、やっぱり子どもに幸せになってほしい。理屈はよくわからないからないけれど、家から出すしかないといわれたので、家から出しました。学費は払ったけれど生活費は出さなかったから、バイトは4年近く同じところでちゃんと働いて、学校に関しては途中いろいろはあったんだけど、本人が一番行きたい場所の入り口(デザイン会社就職)にたどりついた。

親の責任ってなんだろうと、ほんとうにつくづく考えています。わたしと別の魂、別の命、別の体で、別の時代を生きていく子に対する責任をとらなきゃって、なんて思いあがっていたんだろう。しかもわたしの視覚は狭い、この広い多様な世界の中で、学校に行かせて学歴をひとつ付けるというのは、小さい価値観だなーと思いました。本人が欲しい、本人がこだわるなら、援助しても良いと思う。だけどそれは愛情であって、責任ではないよ。そしてお金がないと子どもに愛情を示せないというのは、どう考えても趣味の範疇だ。そういう趣味を全うしたいなら、責任ではなく「楽しいなあ」と働いてお金を稼げばよいではないですか、足りなかったら奨学金借りて、子どもと一緒に返せばいいではないですか。子どもだって自分で返すんだと思ったら、適当な学校は選びません、真剣勝負になります。行って意味のない学校だったら、途中でやめたほうが借金背負わずに済みます。やりたい勉強がある、ここなら将来につながると本人が自分で確信しているなら、奨学金に対する考え方も違ってきます。

子どもの小さい頃を考えてくださいよ。予想もつかない動きでこちらの思惑や計画や常に踏みにじられてきたよね?それが進路に関しても続くのです。それはまつい家がおかしいから、へんだからでしょ?という意見もあるけれど、どんなおうちでも進路というのは、その子の人生そのものなので、親が責任を取るというのは、おかしいことだと思うのです。

以上、ながなが書きました。私は子どものことを相談するときは、子どものいない占い師さんたち、武者江梨さん、天海玉紀さん、瑛兎ビットくん、あたりに相談していました。そうすると子どもからの視点で話が進むので、キッパリすっきりするんですよね。でももうわたしも、この件に関してはブレないな。子どもは未熟だから、たくさん傷つきます。そこに気持ちを寄せて同じように傷ついていては、子どもを助けることはできない。傷ついた本人より早く立ち上がって、息整えないと子ども助けられない。しっかり仕事して、元気に生きていかなきゃと思います。お金は渡せなくても、子どもたちは幸せな人生を自分でつかめると信頼すればいいのです。途中で子ども傷ついて倒れても、え?大丈夫だよ、もっと世界は広いよ、いいこともこれからあるよーと言える楽しさと強さを、逆に子どもたちにもらっているはずだ。みなさんだって。だって自分のお子さんのこと大好きでしょ? 自分のコントロール下にあるペットじゃなくて、ひとりの人間として好きでしょ?(まつい)