11:00~21:00 三上 牧
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比較的のんびりしておりますがお待たせしたりするのは申し訳ないので、お電話でご連絡いただくか、メールにてcaribou.lynxhare@@gmail.com (@を1つ抜いてご連絡ください) ご連絡いただければ幸いです。
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※ 『水晶からあなたへのメッセージ郵送します。』をまた始めました。対面鑑定には来れないという方・・・よかったらどうぞ。

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 最近『お金が100億あったらやりたいと一番最初に思いつくこと=本当にやりたいこと』みたいなことがツィッターに載っていて、あーそれって太陽だよなとちょっと思いました。私は真っ先に旅行したい!と思いますが、それって天秤の太陽的でもあると思います。色んな文化や人々の暮らしを見てみたいのです。博物館好きもそこに繋がっています。しかしそれ仕事になるのとか、社会的なことを考えるとこの望みは破たんしています。なので、オンオフをつけて、働くと旅行行くを交互に繰り返しているのだと思います。

 お金が十分にあるというのは、月の心配(体の安全)をしなくていいということに関係がありそうです。そこが整えば、大手をふるって太陽意思に取り組むことができるわけで。でもそういう生活が安定しているからと言って、他人の役に立ちたいとかにはつながらない。そうつなげるのはちょっと乱暴だよなあと。役に立つ生き方をしたいというのは、太陽意思だけではないのではないか、ただの社会からの期待にインプリンティングされているだけではないかとふと思いました。

 サインの配置からして、獅子は5番目で、獅子サインの支配星は太陽でありながら夜のハウスということに私はずっと引っ掛かりを感じていて、最近ハッとしたのです。太陽の目的とは本来なら個人的なもの。個人の想い、願い、そうありたいと思う心。結局、個人の都合であって、それ単独の願いには社会性というのは別枠なオプショナルなんじゃないかと。

*月の安心・安全満たす(=生活や情緒の安定)
*己のやりたいことを十分にやる(=個性)

この二つのバランスをうまく自分の中で持つ=太陽と月の統合となって基本の土台=個性となるのかなと思います。たいていの人はこれでいいような気がします。

しかし、一個人が単体の力で月を満たしながら太陽をやるというのは本当に大変なことです。月の維持に大変な体力を使うのでこのやり方では小さい規模でしか何もなせない。昔の魔術師の基本は魔術の勉強の他に、手に職を持つことが最低条件であるとうかがいました。そういえば、かのウィリアム・リリーもお金持ちの後家と結婚し、生活の不安を解消することによって勉強研究に打ち込んでいますね。誰だったか失念しましたが、平和時の軍人になることで安定的な収入を得て哲学の勉強に打ち込んだ人もいます。このようなラッキーさがなければ、16~18世紀あたりだと、お金がない人が勉強したいなら教会の意思に沿って勉強する必要がありました(あ、これ木星・9ハウスっぽい)。

個人的に満足している範疇に飽き足らず、更に邁進するとなると火星(エネルギー&燃料)が必要になり、社会天体を使用するというものになるのかもなあと思います。社会天体を使う=社会の力を借りるということのような感じで、社会のためになるという領域かなと。そこと太陽がつながって稼働するのが9ハウスにある太陽=JOYという状態なのかなと。思う存分心行くまで好きなことをしていいと社会が賛同している状態なのかと、そりゃ楽しそうですよね。

教会やパトロン的な人が個人の月を維持するお金を払うということは、それだけの価値があるとみなしたということでもありますよね。社会(もしくはパトロン的な人)に役に立ちそうな頭脳(才能)を潜在的に持っていそうというのが前提条件で、もしくは「条件が運よく生まれつきそろっている」と「ある程度勉強が進み蓄積されて磨かれて才能として発揮」とが重なって発動し、社会的に役に立つ段階になるまで時間が運よくあったともいえますね。これらは、太陽の個人的目的と社会がうまく呼応している状態ともいえます。

もともと、個人の頭脳を個人の楽しみだけで収まらない範疇の人、もしくは状態ですね。レアともいえます。アスペクトがうまくつながったりトランジットをうまく使いこなしたりして個人の範疇を越えていこうとする人がこの二つを乗りこなすのかなと思いますね。

英雄的生き方というのでしょうか。自分の武力(強くなるということに興味がある人)が国を守るために力を使うというような感じですかね。民衆がその英雄を認めるというのも大事かと。あとはソクラテスのように自分の個人的意思と神(アポローン)の意志が合致しているというのも9ハウス木星的でもあるかなと思います。

しかし、世の中そんな人ばかりではないと思うし、そういう才能があったとしても社会に迎合を望まずささやかにという人もたくさんいるわけです。そしてこれらにはステップや段階があると思うのです。

ノエル・ティル先生風に言うと、昼の太陽つまり南半球強調の人はが社会適応性に優れていて(民衆の期待に応えることに優れているが、自分自身の願い=やりたいことへの意思が弱い)、夜の太陽つまり北半球強調の人はやりたいことや自分の意思はよくわかっているのにそれが社会に認められることには力を注がない、もしくは思いつかないというようなことになるのはそういうことかなーと思います。

社会=他人と考えると、他人のニーズをわからなければやりたいことがわかっていても、生活(金銭)に困るわけです。他人のニーズに答えることが、他人が自分にお金を支払いたいと思う要因だとも思いますし。

個人意思というのは実の内側にある「夜の太陽」的で、それが公にみんなにさらされているというのが「昼の太陽」の位置なのかもなと思っております。さらされているというのは、個人の意思や願いを守りにくい位置ともいえます。そういう個人的意思や願いの範疇を越えて広がり、命を縮めてでも成し遂げたいことのようなことも夜(個人)を捨てた昼間の太陽的ともいえますね。北半球強い人間(わたし)からすると、個人の意思を捨てるなんてとんでもないことに思えますけど、そういう生き方もあるのかなと物語とかを読んでいると思います。