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お盆休みも昨日の15日までという方も多いのではないでしょうか。

私の育った地域はお盆は8月で13日はお迎えで15日が送りです。盆棚を飾り、精霊馬を作り、子供の頃、作っている父にその意味を教えてもらいましたね。

ご先祖様は来るときは、きゅうりの馬に乗り早く、急いで来て、帰る時はなすの牛でゆっくり帰るんだよと。

意味なんで知らずに、毎年子供は迎えや送りの時に提灯を持ちたがります。そして、今日16日は私の実家の寺では、お施餓鬼です。

お施餓鬼は餓鬼道で苦しむ一切の生きとし生けるものに食事を施して供養すること、その法要として、盂蘭盆の時期に行う法会です。ご先祖様をお墓に送り、これから立てる塔婆を拝みます。

今年、本物の火ではない、電気の炎の提灯が売られていると知りました。

精霊馬も作るセットがスーパーで売られていたりしますし、時代と共に、昔からの行事も移ろって行くのでしょう。季節感が薄れて行く時代ですが、私はいつもお施餓鬼を終えると我が家の夏も峠を越えたなと感じていました。

前回の私のお店日記に、庚申月なので、金性がめぐってくると、自分が重なるので、もう金性要らないと書きましたが、実は土々しい時期よりは、精神的には楽に成れた気がしています。土々しい季節は土生金で、自分を生じてくれる、助けてくれる季節のはずなのに、考え過ぎて身動きとれない感が強くありました。

埋金という言葉もありますが、土に埋もれていく感じですかね。

そしていまは、自我が強められて、貫索星的な日々の中で、貫索星という星について考えていました。自分の陽占には無い星なので、常々ブレない星でいいなという憧れがありました。

私は主星が調舒星で基本、主観的な人間です。主観7割客観3割ぐらいな感じですね。

そんな人間が運気のせいで客観が強まり、客観性の星の扱いの難しさに改めて思い至っている途中です。

調舒星って日干と他の干が陰陽・陽陰の関係で現れる星なので、陰から陽、陽から陰って自然な流れです。でも貫索星は日干と同じ他の干があるという関係性から現れる星なので、陽陽、陰陰という不自然さ。反発しあうものが成り立たせている星なんだな、が実感され、実感から学ぶ面白さを感じています。

私には龍高星がありますが、算命学を学び始めて、主星の調舒星はすぐ自分だわと思えたし、龍高星もとても意識できました。それは龍高星が自分の中では唯一の陽の星(陽陽・陰陰で現れる星)だったからなんだということがわかりました。

自然に流れないから意識させられる。だから逆に目立つ場所にあるのに自分の司禄星にピンとこなかったのにもうなずけます。司禄は陰の星(陰陽・陽陰の関係)なので自分の中で自然でまぎれて意識しずらいということです。

主観的な無自覚な自然の流れで生きてしまった方が楽なのでは?と今思っているところです。まあ、その方向性に慣れていますし、ずっと自分がやって来たことなので。

しかし、運気の流れで自分に無い要素の貫索星の気を感じて、自分と自分をとりまく環境や世界に距離を感じます。なだれ込めないような。自分と同じ世界を求めるからこそ、見極めたいというような、自然に適応するのではなく意識して適応していくことを求められているような、この距離があるからこその客観なんだなとおもいます。勢いだけでは行けない頑固さが今の自分にはあります。だからこそ立ち止まりたくなるのですが、立ち止まるとますます頭が重くなる、考え過ぎるので行動せよと自分に言って聞かせているところです。

運気の流れからは逃れられないけれど、運気に乗るのか、やり過ごすのか、その巡ってきた運気をどう使うか、どう生かすかを考えられるのが占いの強みですが、自分を省みて思うのは、ぼんやりしているより、より具体的な方向性や、こうしたいという目的意識があった方がより判断しやすいなと思っています。

紅谷柘榴