本日もトナカイでお待ちしています
12:00~17:00 三上牧さん→
 
15:00~20:00 日下ゆにさん→
 
昨日は、鑑定のお客さんたちにもたくさんいらしていただき、その合間に有元さんと打ち合わせをして、明日の講座の準備の月華さんがいらして、昼間のお仕事を納めてきましたーというOL兼業の岩田さんもいらして、年末らしく、とてもにぎやか。閉店時間もいつもより少し遅くなり、帰りは食事がてら、白龍子さんとふたり忘年会。今、勉強中だという算命学の話をいろいろ聞かせてもらいました。
算命学は、ないものはないというかなりきっぱりとした占術なので、迷いがふっきれてすっきりするという効能があります。しかし冥王星乙女サインのわたしたちには、個人的にはちょっと腑に落ちないという部分もあるよね、とほんとうにざっくばらんな話をしました。乙女サインは自分さえがんばればなんとかなる。なんとかならないのは自分のがんばりがたりないせい、という思想の世代です。自己責任ということばを免罪符に自分や他人を追い詰めたりしがちなのです。少し前にもどこかに書きましたが、大阪のいけだ笑みさんとつくづく確認しあったのは、冥王星乙女世代が老齢化社会を担う時代は、自殺率が歯止めがきかなくなるくらい高くなるだろうという予想でした。もちろん、自分が手に入れたいと思っている要素が、算命でみたら「ありません」といわれるのは、がっくりするところです。そんなもん自分の努力でなんとかしてやるわ!と思うのも普通です。普通というかすばらしい。しかしたとえそれが自分の望みではなくても、自分にもなにかは“ある”わけです。正直、世の中が安定して経済成長している時代であれば、算命はがっくり要素の多い占術なのかもしれません。占いでみなくても、人は不断の努力をすれば成績はあがりますし、人格も磨かれて、いい学校に行けて、いい会社に就職できます。乱暴な経営さえしなければ、人や社会の役に立つ起業をして、そこそこの成功も収めることができるでしょう。ひとつやふたつの失敗を支える家族の愛や社会保障のクッションも機能しているでしょうし、そうやって日本は戦後から復興して、高度成長の時代を築きあげてきたのかもしれません。
でも今はたぶん、ないものはないという事実が、人を痛みから救い、気持ちや経済に余裕をもたらす効能の多い時代になったのではと思うのです。ないものはないけれど、ちゃんとなにかは持っているわけです。それはいわゆる一般的にいって「幸せ」だとか「成功」という事柄のどこに使いどころがあるのか、よくわからないものなのかもしれません。冥王星天秤の時代が社会を担う段になって、個人の成果主義の時代は終焉しました。どんな星をどのように持っている人がどれだけいるのかというバリエーションを知ることが重要なのです。バリエーションはあればあるだけいい、幸せの形、不幸の形もバリエーションを増やします。バリエーション多ければいい。
算命も占星術と同じで、読み解き方、伝え方の技術の問題だよなあということになります。自分が欲しいと思っていた星はなかった。しかしだれでもなにかは持っている、持っているものを生かしましょう、それが人と違っていてもいい。そのことにすごく勇気や思い切りが必要だということもあります。わたしはここのところ、ずーっと魚サインのことを考えていて、魚サインの説明のむずかしさと、社会にどのように役立たせるのかという用途の問題について考えていて(それは占星術を勉強し始めた頃から考えていて)結局、ひとつの単語に集約させるとなると“芸術”なのかな、と。この世界に体とこころという命を持って出現したこと、それがもう万人にとって“芸術”で、つまりそういうわけで、なんでもアリなのかなと。
来年は、魚座に海王星が本格的に入るので、混沌としていきます。つまり、乙女座のきっぱりくっくりした世界に天体を持つ人は、180度で魚要素が流れ込む通路ができます。ひとりでいろいろ自分計画をがんばりすぎたという人は、この通路を使って今一度、自分がこの世界に生まれてきたという本質的な芸術を味わう可能性があります。全体的に魚座海王星とアスペクトすることでできる通路は、なんだかこれまでとは慣れていないことに味わうショックがあるのかもしれません。すべて全部に意味があるという“芸術”的解釈がなければ、算命の鑑定は人によってつらい占術なのかもしれませんが、これから本当の意味で必要な人が増えてくる占術のようにも思えました。ないものはない。そこはほかの人にまかせて、自分にあるものを育てて世の中のひとつのパーツになろう。そこに息苦しさを感じるとしたら、それは魚濃度不足です。そんな境目はこれからの世の中、きっとどうでもいいのです。というか、そのあたりを麻痺させながら、冥王星山羊座のシステム改革は進んでいくんでしょう。(店長・まつい)