16:00~21:00 みかみまき
※17時~18時ご予約いただいています。
本日、急用で午前中はお休みしております。午後16時~お店におりますのでその時間以降にいらしていただけると幸いです。よろしくお願いします。

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今日は朝、バタバタしてしまい、ほぼ前半のお店の時間には間に合いませんで15時ちょっと前にお店につくような羽目に。お騒がせしてしまい、申し訳ありません・・・(汗)こういう時の優先順位って迷いますが、なかなか自分の理想にはいかないものです。

やぶからぼうですが、自分が思う通りに行かないと言えば、水晶読みもそうだなあと思います。水晶を使ったリーディング、6年くらいやっていますがいまだにちゃんと見えている自信がありません。見えてるというか、見えたものを自信持ってお出しする自信がないのかもしれません。それくらい、「は?」というものが見えます。そして紙にそれをなぞるように絵を描いています。自分の画力というよりなぞっている感じ。もちろん、その画力には自分の実力が出るので、わたしっぽい絵ではあるんですけど・・・これでいいのかと思っていながら、ま、いいかと思い今に至っています。
同じだと思うこと自体おこがましいのですが、昔の詩人(ホメーロスとかですね)も自分の力で書くというよりは降りてくるものを言葉にするという受信的であると聞きました。確か、プラトンを研究されている先生がテレビか何かで、「詩とはイデア(神の世界、超越した世界にある理想形)を自分の理解を越えて言葉に置き換える行為」といっていまして、妙に納得しました。才能があるからキャッチできるとかそういうのじゃなくて、上からそういう世界はシャワーのように降り注いでいて、それをただ意識を向けて受け取るというだけ。才能があるとすれば、意識を向けようと思いつくところですかね、イメージ的に。昔の詩(叙事詩や神話)はそうやって神から降りてきたものを語り部が語り繋いできたもの。水晶読みもそういう部分があります。その辺にいつも無造作に降っているいろいろを、封筒やクライアントの希望というフィルターをかけて、映像を見る感じだと思っています。私の勝手な妄想ともいえますが、私を介在させないことを大事にしています。水に浮かんで、水と揺らぎを共有する感覚に似ていますね。そうやって同調した中で、決められたお題に沿って降りてくるものを書き写す感覚です。見えてるものをなぞる。もう少し正確になぞれればいいのですが、丁寧に書こうとするとトラックから落ちてしまうので瞬間をとらえてそのままペンを動かします。そんな私の水晶読みですが、先日漫勉を見ていて浦沢先生がお話を考えるというより、流れてくる映像を書き写しているということをおっしゃっていて、勝手に共感し同じじゃん!!と思いました。マンガってだから妙に面白いのかもなあと、現代らしい芸術だなと改めて思いました。アニメのような音付きも面白いですけどね(みかみまき)